今回は80年代に活躍したロックバンド『BOØWY』について語っていきたいと思います。
BOØWYは氷室京介、布袋寅泰などが在籍し、わずか7年で絶大な人気を集めた「伝説のバンド」です。
彼らが残した『Marionette』『B・BLUE』などの名曲は、解散から30年以上経った今も根強い人気を誇り、多くの人々に愛されています。
この記事ではBOØWYに在籍していたメンバーや代表曲、当時のエピソードについて詳しく紹介していきます。
「BOØWYの何が凄かったのか知りたい!」「80年代の音楽に興味がある!」という方は満足できる内容になっているので、ぜひ最後まで読んでみてください。
BOØWYは1981年~1988年まで活動していたロックバンドです。
バンド名の由来は「メンバー全員が男(BOY)だった」ことであり、「Ø(空集合)」には「どこにも属さない」「誰にも由来していない、誰にも似ていない音楽」という意味が込められています。
デビュー前に事務所から提案されたのは『群馬暴威』という名前でしたが、メンバーがこれに大反対したことで『暴威』に変更。
その翌年に『BOØWY』へと改名し、1982年に1stアルバム『MORAL』でデビューを果たしました。
デビュー当時はあまり売れていないバンドでしたが、3rdアルバム『BOØWY』がオリコンチャートにランクインしたことをきっかけに人気を高めていきます。
その後は『ONLY YOU』『Marionette -マリオネット-』『B・BLUE』などのヒット曲を連発し、アルバム『BEAT EMOTION』『PSYCHOPATH』は、当時のバンドとしては珍しいミリオンセラーを記録しました。
トップバンドとしての地位を確立していた頃、1987年のクリスマスイブ(12月24日)に解散を宣言。
解散宣言から1年後の1988年4月4日、5日に東京ドームで解散ライブ『LAST GIGS』が行われ、バンド活動を終了しました。
メンバー(左から順に)
ギター:布袋寅泰
ボーカル:氷室京介
ベース:松井恒松
ドラム:高橋まこと
BOØWYは1981年に氷室京介(ボーカル)、布袋寅泰(ギター)、松井恒松(ベース)、深沢和明(サックス)、木村マモル(ドラム)、諸星アツシ(ギター)の6人で結成。
1981年には深沢和明が脱退し、翌年には木村マモル、諸星アツシの2人も脱退。新しいドラマーとして高橋まことが加入し、4人体制のバンドとして解散まで活動していました。
本記事では解散まで在籍していた氷室京介、布袋寅泰、松井恒松、高橋まことの4人について紹介します。
担当:ボーカル
生年月日:1960年10月7日
出身地:群馬県高崎市
氷室京介は、髪を逆立てたヘアスタイルと圧倒的な歌唱力で「BOØWYの顔」として知られている方です。
ファンからは「氷室京介」と「ロック」を合わせた『ヒムロック』の愛称で親しまれています。
学生時代はかなりの不良少年で、地元の群馬でも喧嘩が強いことで知られていました。
同じ群馬出身の布袋寅泰は、当時は周りの人が氷室京介を避けて通るほどで「ただただ怖いイメージだった」と語っています。
そんな氷室京介はヤンキーだった頃から歌がかなり上手く、プロ級の歌唱力を持っていました。
BOØWYの曲を歌う時も、ハスキーボイスを活かした色気のある歌声でファンを魅了しています。
ワイルドな見た目と爽やかな歌声のギャップが、氷室京介の魅力です。
担当:ギター
生年月日:1962年2月1日
出身地:群馬県高崎市
BOØWYのギターを務める布袋寅泰は、「日本を代表するギタリスト」の1人として知られている方です。
ボーカルの氷室京介とは実力・人気を二分していて、「2人の天才」とも呼ばれていました。
布袋寅泰は「踊りながら弾く」という独特なスタイルで演奏しています。
BOØWYの曲ではリズムに合わせて体を動かし、高速でギターを弾く姿が印象的です。
ステップを踏みながらノリノリでギターを弾く姿はとても楽しそうですよね。
重厚感のあるギターサウンドは、いつ聴いても痺れるくらいカッコいいです。
担当:ベース
生年月日:1960年9月8日
出身地:群馬県高崎市
松井恒松は、「直立不動+無表情」のプレイスタイルが特徴のベーシストです。
ステージの上では一切動かず、仁王立ちでひたすらベースを弾き続けています。
ステージで自由に動き回る氷室京介と布袋寅泰とは比較されることが多く、ファンからは「不動のベース」と呼ばれていました。
ボーカルの氷室京介は、彼のことを「渋い男です。」と語っています。
黙々と自分の役割をこなし、バンドの重低音を支える松井常松の姿は、まさに「職人」と言えますね。
担当:ドラム
生年月日:1954年1月6日
出身地:福島県福島市
ドラマーの高橋まことは、1982年に加入したBOØWYの最年長メンバーです。
知人に誘われたBOØWYの1stライブでドラムを募集していることを知り、オーディションを経てBOØWYに参加しました。
高橋まことの演奏スタイルは「シンプルかつ正確なビート」と「迫力のあるサウンド」が特徴です。
安定感のあるリズムでドラムを叩き、高速で8ビートを刻む姿から「アトミックドラム」「Mr.8ビート」という異名が付けられました。
迫力のあるサウンドで躍動感を与え、ステージの後ろからBOØWYのリズムを支えた「縁の下の力持ち」と呼べる方です。
BOØWYは「80年代の学生は誰もが夢中になっていた」と言えるほどの人気を集めていました。
当時の人の中には「カラオケで1曲は必ず歌った」「BOØWYのコピーバンドを組んでいた」という方も多かったようです。
ここからは、そんな80年代の青春を彩ったBOØWYの曲を5つ紹介します。
あれから30年以上経った今でも色褪せない名曲が揃っているので、気になった方はぜひ聞いてみてください。
リリース日:1987年7月22日
収録アルバム:『PSYCHOPATH』
シングル売上枚数:24万枚
『Marionette』は、1987年7月22日にリリースされたBOØWYの6枚目のシングルです。
BOØWYのシングルでは1番の売上を記録し、オリコンチャートで初の1位を記録した「BOØWY最大のヒット曲」です。
最初はギターとベースが奏でるイントロから始まり、そこから徐々に勢いが増していきます。
サビで繰り返される「鏡の中のマリオネット」も印象的で、聴けばテンションが上がること間違いなしです。
ちなみに、『Marionette』はBOØWYのすべてのライブで演奏された曲で、氷室京介は「お前らが俺たちを日本一にしてくれた曲」と語っています。
「この曲をきっかけにBOØWYがトップバンドへと成長した」と言っても過言ではない名曲です。
リリース日:1986年9月29日
収録アルバム:『BEAT EMOTION』
シングル売上枚数:13万枚
『B・BLUE』は、1986年9月29日にリリースされたBOØWYの4枚目のシングルです。
同年11月に発表された5枚目のアルバム『BEAT EMOTION』の収録曲として制作されました。
疾走感のある曲調と氷室京介のキレのある歌声が特徴で、「これぞBOØWY!」と呼べるカッコいいロックになっています。
曲の途中に入る布袋寅泰のギターソロも、聴きどころの1つです。
こちらも解散までの全ライブで演奏された曲で、BOØWYの代表曲の1つとして知られています。
リリース日:1987年4月6日
収録アルバム:『BEAT EMOTION』
シングル売上枚数:11万枚
『ONLY YOU』は、1987年4月6日にリリースされたBOØWYの5枚目のシングルです。
作詞を氷室京介が担当したこの曲は、「氷室が妻に向けて書いたラブソング」と言われています。
この曲は「オマエはいつも笑ってくれ」「ONLY YOU オマエだけに」といった、1人の女性への愛情を表現した歌詞が特徴です。
何度も繰り返される「Only you」というフレーズから、「一緒にいたい」という強いメッセージが伝わってきます。
氷室京介の爽やかな歌声も印象的で、何度聞いても聞き惚れます。
リリース日:1986年2月1日
収録アルバム:『JUST A HERO』
シングル売上枚数:3万枚
『わがままジュリエット』は、1986年2月1日にリリースされたBOØWYの3枚目のシングルです。
こちらは作詞・作曲共に氷室京介が担当しています。
『わがままジュリエット』は、先ほど紹介した『Marionette』や『B・BLUE』のような力強いロックとは全く違った、スローテンポのバラード曲です。
ゆったりとしたメロディーに、氷室京介の美しい歌声が響き渡ります。
BOØWYでは珍しいロマンティックな雰囲気の曲で、ファンからの人気も高いです。
リリース日:1985年6月21日
収録アルバム:『BOØWY』
アルバム売上枚数:62万枚
『Dreamin’』は、1985年6月21日に発売された3枚目のアルバム『BOØWY』に収録された曲です。
作詞・作曲は布袋寅泰が手掛けました。
この曲はBOØWYにはあまりない、応援ソングのような曲です。
「俺はそんなにバカじゃない」「ハートは今ここにある」といったポジティブな歌詞が、聴く人に元気を与えてくれる曲に仕上がっています。
ちなみに、『Dreamin’』は氷室京介の「夢を見てるヤツらに贈るぜ!」という呼びかけからスタートします。
ライブではいつもこのセリフから始まっていて、BOØWYファンにとっての「お約束」でした。
80年代のバンドブームの火付け役となり、現在も高い人気を集めているBOØWY。
完成された音楽と強烈なビジュアルでバンド業界に多大な影響を与えたことから、「伝説のバンド」とも呼ばれています。
ここからは、BOØWYが結成された経緯やブレイクを果たしたきっかけなど、BOØWYの当時のエピソードを紹介していきます。
BOØWYは1980年に、氷室京介と布袋寅泰が中心になって結成されました。
氷室京介は「音楽で夢を掴む」ために群馬から上京し、『スピニッヂ・パワー』のボーカルとしてデビューします。
バンド活動をスタートさせますが、思い通りにいかないことに嫌気が差して脱退。夢を叶えることができず、群馬に帰ろうとしていました。
そんな中、当時付き合っていた彼女からチケットを貰い、日比谷野音で行われた『RCサクセション』のライブを見て「新しいバンドを結成しよう」と決意。
後輩の布袋寅泰に連絡を取り、六本木の喫茶店『アマンド』に呼び出してバンド結成を提案します。
それから地元の仲間を誘ってメンバーを集め、1981年にBOØWYの活動がスタートしました。
BOØWYはデビューしたばかりの頃から、「ハチャメチャな不良バンド」として知られていました。
1981年5月に開催された新宿ロフトでのデビューライブでは、「氷室京介が店長に喧嘩を売った」という話が残っています。
ある時、ライブのリハーサル時間が押したことに怒った氷室京介が、「遅っせぇ~なぁ!どうなってんだよ!」と大声で怒鳴り出します。
店長が「もう少し待ってくれないか」と言っても、「誰だ!てめぇ~は!」と反抗していました。
BOØWYが当時所属していた事務所『ビーイング』の社長であった長戸大幸さんは、「元暴走族の破天荒な連中」「音楽の才能はあるが手に負えない」と語っています。
群馬の有名なヤンキーであった氷室京介がいたこともあり、BOØWYは常に「解散」の噂が流れていたバンドでもありました。
BOØWYはその後もライブ活動を積極的に行っていましたが、初期の頃は人気も知名度もほとんどない「売れないバンド」でした。
しかし、1985年にリリースされた3rdアルバム『BOØWY』をきっかけに大ブレイクを果たします。
リーゼントに黒スーツというインパクトのある見た目、疾走感のあるビートロックという、これまでのバンドにはなかった斬新なスタイルで注目を集めました。
その後も『Marionette』『B・BLUE』などの名曲をリリースし、1986年にアルバム『BEAT EMOTION』がオリコン初登場1位を記録。同年には初の日本武道館公演を開催しています。
「不良バンド」だったBOØWYは、その強烈なビジュアルとクオリティの高い曲で注目を集め、トップバンドへと登り詰めました。
「80年代を代表するバンド」として圧倒的な人気を誇ったBOØWYは、1987年のクリスマスイブ(12月24日)に渋谷公会堂のライブで解散を宣言。
絶頂期に突然発表された「解散」は世間に大きな衝撃を与え、多くのファンが涙しました。
BOØWYの中で1番大きな出来事といえる「解散」について、詳しく解説していきます。
BOØWYの「解散」は新聞の広告でも大きく取り上げられ、社会現象にまで発展しました。
この時のBOØWYの人気は凄まじく、解散ライブのチケット約10万枚がたった10分で完売、予約の電話が殺到して東京・文京区の回線がパンクするほどでした。
それから1年後の1988年4月4日と5日に、東京ドームで解散ライブ『LAST GIGS』を開催。
解散宣言の後にも演奏された『Dreamin’』を最後に、7年間のバンド活動を締めくくりました。
同年5月3日には、解散ライブで演奏された23曲中11曲を収録した最後のアルバム『LAST GIGS』をリリース。
発売から2週間後の5月16日にオリコン1位を獲得、累計売上153枚という功績を残しました。
BOØWYの解散理由は、ネット上で「不仲説」「それぞれのソロ活動のため」など様々な噂が上がっています。
では、メンバーは「解散」についてどう語っているのでしょうか。
氷室京介は音楽雑誌のインタビューで「次に行きたい場所というのがみんなそれぞれにあった」と語り、布袋寅泰は自伝『秘密』で「解散せざるを得ない理由があった」「墓場まで持っていく」と思いを述べています。
松井恒松は自伝『記憶』で「布袋寅泰がBOØWYを『辞めたい』と言った」と綴り、高橋まことは『現代ビジネス』のインタビューで「布袋寅泰がホテルにメンバーを集め、解散を告げた」と、4人それぞれが違う認識を持っています。
BOØWYの解散から37年(2025年時点)が経った今でも、その理由は公表されていません。
真相は未だ謎のままですが、ファンとしては「解散」の真実がいつか明かされることを願っています。
氷室京介、布袋寅泰、松井恒松、高橋まことは、BOØWYの解散後もそれぞれの音楽活動を続けています。
かつて「伝説のバンド」に在籍していたメンバー4人は今どうしているのか。現在の活躍について見ていきます。
氷室京介はBOØWYの解散後、1988年7月に『ANGEL』でソロデビューを果たします。
その後も『KISS ME』『魂を抱いてくれ』などのヒット曲をリリース。楽曲制作やコンサートの開催など、アーティストとしての活動を精力的に行っていました。
順調にソロ活動を続けていた中、2014年7月にライブ活動の無期限休止を宣言。
2016年に最後のツアー『KYOSUKE HIMURO LAST GIGS』を行い、表舞台から姿を消します。
それ以降は目立った活動がないですが、現在も音楽制作を続けているそうです。
ソロデビューから30年以上経った今でもその人気は衰えず、多くのファンが復活を待ちわびています。
布袋寅泰はソロギタリストとして、現在もアルバム制作や全国ツアーを行っています。
1988年10月に1stソロアルバム『GUITARHYTHM』をリリースし、同年12月には吉川晃司とのユニット『COMPLEX』を結成しました。(1990年に活動休止)
さらに、自身の音楽活動だけでなく、プロデューサーとしても活動。
TOKIO『愛の嵐』、嵐『心の空』、郷ひろみ『笑顔にカンパイ!』、MISIA『Back In Love Again』、ももいろクローバーZ『サラバ、愛しき悲しみたちよ』など、これまで多くのアーティストに楽曲を提供しました。
この他にも2021年の東京パラリンピック開会式でギターを演奏、同年12月には『NHK紅白歌合戦』に初めて出場しました。
BOØWYが解散してからも、日本人ギタリストのレジェンドとして幅広い活躍を見せています。
松井常松は、プロデューサーやラジオ番組のパーソナリティとして活動中です。
1989年11月には初のソロアルバム『よろこびのうた』をリリースし、それ以降も多くのシングルやアルバムを制作しています。
また、松井常松は「BOØWYメンバーとの交流が1番多い」ことで知られています。
氷室京介と高橋まことのアルバム制作に参加したり、布袋寅泰のライブツアーにはサポートメンバーとして出演しました。
2019年には、布袋寅泰のアルバム『GUITARHYTHM VI』の収録曲『Thanks a Lot』に高橋まことと一緒に参加。
BOØWYのメンバー3人が揃ってレコーディングを行ったのは『LAST GIGS』以来、実に31年ぶりの出来事です。
ソロ活動を始めてからは、ベースだけでなく作詞・作曲にも挑戦していて、現在も新しい音楽を届け続けています。
高橋まことはBOØWYの解散後も、『De-LAX』などいくつかのバンドに参加していました。
現在は2020年に結成された『JET SET BOYS』と、息子のKEITAとのバンド『THE FROGLETS』のドラマーとして活動しています。
さらに、イベントやテレビ番組にも積極的に出演していて、BOØWYの活動やメンバーとの交流について語っています。
ネット上には高橋まことのインタビュー記事がいくつか公開されているので、ぜひチェックしてみてください。
BOØWYが残した多くの名曲は、2016年にApple Music、Amazon Music、AWAなどで配信がスタートしました。
配信された曲はデビューアルバム『MORAL』から、ミリオンセラーを記録した『BEAT EMOTION』『PSYCHOPATH』、最後のアルバム『LAST GIGS』など200曲以上です。
各配信サービスでは『Marionette』『B・BLUE』『Dreamin’』など名曲の数々を、いつでも好きな時間に聴くことができます。
本記事を読んで「BOØWYのことが気になった!」「曲を聴いてみたい!」という方は、この機会にBOØWYの音楽に触れてみてはいかがでしょうか?
最後までご覧いただきありがとうございました。
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