今回は西城秀樹さんについて語って行きたいと思います。
西城秀樹さんは1972年3月25日、日本ビクターよりシングル「恋する季節」で歌手デビューしました。
キャッチフレーズは「ワイルドな17歳」で愛称は「ヒデキ」。
郷ひろみさん、野口五郎さんと共に「新御三家」と呼ばれるようなりました。
今回はそんな西城秀樹さんの日本の音楽シーンで多大な影響を与えた伝説を紹介していきたいと思います。
これまでも合いの手等があった曲はありましたが、「情熱の嵐」等のコールを想定した曲を作り、コールアンドレスポンスを日本の歌謡曲に初めて本格的に取り入れました。
当時は人気が出てきた頃はステージに出て歌ってもキャーキャー騒がれて、歌を聴いてくれないのが悩みだったそうです。
そこで、西城さんが「君が望むなら!」と叫んだら「ヒデキ!」とお客さんが叫ぶ「コールアンドレスポンス」を使おうとなったのがきっかけとなりました。
また、ペンライトの発祥は西城秀樹さんのコンサートです。
西城秀樹が1974年夏に大阪球場でコンサートを行った際、コンサート前日のラジオ番組で懐中電灯を持ってくるように呼びかけ、多くの観客が持ってきたことでこの使用法が広まったと言われています。
#CBCテレビ #新設クリエイティブ委員会ソレアルカモ で、#西城秀樹 #秀樹 さんの写真が使われました🤗 #カズレーザー #パンサー向井 #南海キャンディーズ #山里亮太 #天の声 #ヤングマン #YMCA 秀樹さんが #サイリウム #ペンライト を最初にコンサートで使用したんですね‼️ pic.twitter.com/zaMh5w2kH5
— ひろズーマー&PCX (@carparigatou) February 7, 2019
コンサートで日本初のレーザー演出を行ったとしても有名です。
西城さんはスタジアムコンサートを日本人ソロアーティストとして初めて開催しました。
「ウッドストック・フェスティバル」の影響を受け、「野外イベントを誰よりも早く日本でやりたかった」と西城さん自身が企画し、1974年に「ヒデキ・イン・スタジアム“真夏の夜のコンサート”」を大阪球場にて開催しました。
大阪球場でのコンサートは1974年より1983年まで10年連続と長きにわたり継続されました。
海外のロック、ポップスなどの洋楽を、コンサートやカバーアルバムなどで先進的に取り上げ、結果的に日本国内での普及に貢献しました。
西城秀樹の代表曲でもある「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」もアメリカのヴィレッジ・ピープルの「YMCA」のカバー曲です。
1970年代はマイクを持って直立不動で歌うのが正しいとされていましたが、この概念を打ち破って激しいアクション付きで歌うスタイルを、1970年代に広めました。
西城秀樹さんの魅力といえばやはり素晴らしい歌唱力です。
180cmを超える長身から発する男らしくセクシーで魅力的な歌声は圧倒的で、感情を込めて全身全霊で歌うその歌唱法は後に「絶唱型」と呼ばれました。
西城秀樹さんの歌唱力はとても評価が高く、黒柳徹子さんは「ザ・ベストテン」の出演者のなかで、ダントツに歌がうまかった」と評しています。
いかがでしたか?今や洋楽カバーやコールアンドレスポンスやペンライト、レーザー演出等、これらは日本の音楽シーンでは当たり前になっていますが、西城秀樹さんが日本のコンサートを変えたといっても過言ではありません。
今回は西城秀樹さんについて語らせていただきました。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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私は、西城秀樹のファンであっても両親が厳しかったので、秀樹グッズはもってはおらず毎回新聞のテレビ欄を見ては、秀樹の出る番組をチェックしては、テレビにうつる秀樹を応援する日々を送る毎日でしたし
一度、秀樹が静岡の音楽フェスタに、来る機会があったときにも親の反対にあったからフェスタにも行けませんでした。去年
何事にも厳しかった親を説得して、秀樹が生前に書いた本を手に入れただけなので、それが、私の宝物です。
だから、これからもわれわれの国民が大好きな『西城秀樹』の情報があれば、何でも知りたいので、お願いします(*^^*)