世代が近いというだけでなく、やはりデビュー時から知っている(あくまでテレビの中ですが)人物というのは、「知っている」という意味合いが違うような気がします。自分の世代からですと岡田有希子さんは3つ上で、もちろん私的なご縁やゆかりはないのですが、彼女についてのことを思うとやはり心が痛みます。もう一つ、彼女が命を絶った日は自分の高校の入学式の日でした。今もこの季節になると少し思い出してしまいます。
今回お譲りいただきましたファンクラブ会報『YUKIKO』は、創刊準備号を含むと全13冊あるうちの第3号から9号、そして第12号の8冊です。最終号となってしまった12号には、83年のラジオパーソナリティーデビューから86年初頭までの活躍年表が残されています。
アイドル歌手としてのデビューは84年4月。中森明菜、小泉今日子、早見優、松本伊代といった、いわゆる「花の82年組」がそれぞれの個性を際立たせることで成功を収めたタイミングでした。芸能界はそこに続く「次の一手」を模索していたように思えます。84年デビューのアイドル歌手はほかに菊池桃子、荻野目洋子、工藤夕貴、倉沢敦美。長山洋子、少女隊、セイントフォー、男性では吉川晃司と、十分な実力と事務所の厚いバックアップに支えられていた面々でした。そんな中で岡田有希子は正統派アイドル路線を選択。実際のところアイドルの多様化が進んだ中で、岡田有希子の路線は同じ事務所でもある松田聖子が確立させた「王道」にすっぽりハマった印象があります。
この時期の雑誌などで「ポスト松田聖子」と呼ばれることに抵抗し、目標とする歌手を「岡田有希子」と答えているのは、その分周囲に「ポスト聖子」として見られていることへの反発もあったのではないでしょうか。ともあれ彼女はデビュー以降着実に人気を伸ばし、この年の末の「日本レコード大賞」「日本歌謡大賞」など各賞の新人賞などを多数受賞しました。
翌85年もコンサートやレギュラーのTV/ラジオ番組、NHKの新大型時代劇『真田太平記』や初主演となった『禁じられたマリコ』の撮影などの多忙なスケジュールをこなしています。さらに86年1月には、先輩である松田聖子の作詞、坂本龍一作曲による『くちびるNetwork』であり、初登場で自身の最高位であるオリコン1位に輝いています。
順風満帆に見えた彼女の人生にどんな陰がさしたのか、今となっては知るすべはありませんが。ただ、ファンクラブ会報の中の彼女は永遠に笑顔であることが救いです。
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